【ネタばれあり】映画『ミッドサマー』で、なぜダニーはアッテストゥパンで全く〇〇しなかったのか考えてみる
※この記事は映画『ミッドサマー』のネタバレ(文・画像)を含んでいます!
映画『ミッドサマー』が公開され、いろんな解説や考察が飛び交うなど、盛に盛り上がっていますね。
私も公式の解説ページを隅から隅まで読んだ中毒者です…。
しかし、色々読んでみても一点気になることがあります。
それは“なぜダニーはアッテストゥパンを見て全く動揺しなかったのか”という点。
最初こそ、人が崖から飛び降りるのを目の当たりし、文字通り開いた口がふさがらなくなっているダニー。
でも気が付くと、横でぎゃーぎゃー騒いでいるサイモンたちをよそに、ダニーはまるで電源でも落ちたのかという位、その残酷な儀式を見つめています。
なんでダニーの家族は死んだのか?
「そりゃおまえ、精神を病んだ妹が無理心中したからだろ」というのはごもっともなのですが、それは原因。
ダニーの家族が死んでしまった“意味”は?と聞かれると、これがムムム…うまく答えられない…。
ダニーの家族の死から意味を見出すことは、ダニー同様、観客である私たちにも非常に困難です。
儀式の“死”には意味がある
一方で、アッテストゥパンでの死は、確固たる意味があります。
ホルガにとって、この儀式における死は非常にポジティブ。
ラストでも自ら焼死を選んだウルフとイングマールも、その死に確固たる意味を見出しているからこそ名乗り出たのでしょう(でもウルフだけぎりぎりになって怯えてるのはブラックユーモア味ある。やっぱ嫌なんじゃん!)。
そういえば、アッテストゥパンのシーンで、ダニーは死んだ家族の幻影を見ます。
この時点で、ダニーは家族の死に意味を見出すことが、ホルガではできるんじゃないか?と期待していたのかもしれません。
ダニーはアッテストゥパンのあと、終始ホルガから出たいと訴えていますが、そうはしません。
できなかったのでは?とも思ったのですが、サイモンの彼女・コニーは(マーク曰く、「五輪選手のように」)自力で脱出しています。(ひょっとしてコニーも犠牲になった?ぶっちゃけ皆“映え”加工され過ぎて、ジョシュとサイモンしか目視で区別できなかったんだよなあ…)※【追記】コニー普通に死んでましたね。見落としてたー!
「あんな物騒な儀式理解するのもおぞましい」という感情と「家族の死にも意味があったのではないか…」という感情がせめぎ合っているからでしょう。
そしてこのダニーの期待が実現したシーンこそ、熊と共に業火に焼かれた最凶彼氏・クリスチャンです。
しょーもないケーキにしょーもない蝋燭さして火も満足に灯せなかった奴が、儀式ではよく燃えていました。
クライマックスで死に意味を見出せたダニー
ラストのクリスチャンをいけにえに捧げるシーンをもって、ダニーもとい監督の失恋は克服された(監督はこの映画を作った動機に、自分の失恋を克服するためと明言している)わけですが、これはダニーが「この死には意味がある」と認めることで成立するシーンです。
そうでなければ、浮気した彼氏を儀式にかこつけてぶっ殺したサイコパスになってしまいます。
監督も、別れた恋人を恨んでこの映画を作ったわけではないのでしょう。
ラストのあの笑顔も「クリスチャンざまぁw」ではなく、「ここにいれば辛いこと(家族の死・失恋)もきっと乗り越えられるじゃん!」みたいな意味が込められていたのかも…。
結論
“なぜダニーはアッテストゥパンを見て全く動じなかったのか”
それは、死に意味を見出すことで、今の自分が救われるのではないのかと気づき始めたから。
という感じでしょうか。
私が敬愛するライターさんは「『ミッドサマーは救済』の映画」とおっしゃっていて、なるほどなー!と思いました。
そういえば、以前お坊さんのインタビューを読んだ(なんで?)とき、「死ぬことは怖くない」と語っていたのを思い出しました。
こうやって書くとめちゃくちゃ無鉄砲な人みたいですが、正確には「いつ死んでも大丈夫という意識を常に持っている」とのこと。
信仰するものは違っても、死に意味を持つと怖いものではなくなるのでしょうか。
今回のケースは「ダニーが家族の死を乗り越えられた」というメリットが見えますが、裏を返せば自爆テロのそれとかも、根源が同じような気も…。
…脱線しました。あんまり深入りすると戻ってこれなくなりそうで怖いので、「フラれちゃっても大丈夫っ!失恋にだって意味はあるんだよ☆」くらいの敷居で観るのが、案外一番楽しめるのかもしれませんね…。